昭和40年02月13日  13日会



  昨夜ある事で、私は一睡もしなかったおかげで、午前中まぁどうやら奉仕させて頂いた。お食事がすんだら、しばらく皆さん集まられる間休ませて頂こうと思うて、炬燵に入ってから、休ませて頂いたら人が来る。又休ませて頂いたら、又人が来る。ようやくまぁぐっすりと、と迄はないけど休んどった。又「もう先生2時半ですよ」と、久富先生に起こされる。もう無性に腹が立ってたまらん。おかしいですね。
  解りきった事なんですけれども、神愛を悟らしてもろうて神愛に応えさして頂くと云うのが信心であり、特に13日と云う日は、特にそこに焦点をおいて、神様の願いに応えると云う事。まず何と云うても当り前の事が当り前の事しか出来んこと。13日会だからとわざわざ特別の事じゃないと。当り前の事が当り前の事として出来るおかげを頂く為に、お互いが特別、例え13日なら13日会の会員であると言う事がです、まぁ一つの誇りを持ってと言った様なものが、私微塵でもあってはならないと思う。
  当り前の事が当り前に出来ないから、その当り前の事せめて今日一日だけなりとも、とこういう訳なのである。そして私は今御神前で、何の為にこんなムシャクシャと腹だたしいんだろう、本当に相済まん事だと。神様に『泰愛』と頂いた『大愛』というのは、泰然自若な泰である。例えば神愛の中には様々な愛がある。ね、例えばこの近所に久留米の教会に親愛会というのがある。
 親の愛の会というのが、甘木には真の愛の会というのがある。ね、神愛語呂は同じだけれど意味が違う。いわゆる神愛ここでいう神様の愛。神愛の中にある一部の愛なのである。普通では。最近桜井先生が頂かれておられる博愛、博愛を身につけとこう仰る。今日私が申します。泰愛と言った様な愛、そう言う事は言葉として聞いた事もない。辞引にもないだろうと思う。
 けれども私はこう泰然自若の泰であり、ね、元気な愛だと思う。私の心にその泰然自若の愛がない、元気がない為にそのくらいの事がまぁ無性に腹が立つんじゃなかろうかと。今日当り、私自身この事に取り組ませて頂こうと。腹が立つなどというその根本と云うのは、どう言う様な事だろうかと私、思うんですけれども。これはどうだろうかな、本当に自分の子供の為に、本当の子供の為に、一晩眠られなかったというのであったら、こんなに腹が立つ事はないだろう。
 ここの一信者の事について眠れなかったと、本当に自分の細やかな事をいやぁ、むしろ、私、自分の子より人の子の助かりを、日頃は願っておるようにあるのだけれども、今日のような状態に自分がなってみて初めて、それは本当なもんじゃないなと言う事を、愈々感じる。ね、そんならここに、どうでも必要なのはです、所謂、神様から示されておる泰愛ではなかろうかと。泰然自若とした愛ではなかろうかと、これじゃこの人が助からん。これじゃこの人がお蔭を頂けきらん。
 例えば一晩中その人の為に思い募るようにしてから眠れなかった。それが結果は反対だった。まぁ極端に云うなら、反って逆恨みされるような結果になった。さぁ御神前に御結界に、こうやって奉仕させて頂いておる間は、まぁ所謂なんというですか、押さえておる、押さえておるというても、ぐうぐういうて押さえんならん事もない。所謂なんでもないかのように見えた。所がひとたび矢張り夕べ眠っていない。
 さあ一寸休ませて頂こうと言う事になって、その休ませて頂いておる、たった一寸の間だけれどその間、次々と起こされる。それが無性に腹が立つ。結局泰愛の欠如である。私は、神愛に応えてゆくと言う事。ね、それが信心であり、13日会と云うのは、只13日と云う事実をです、ね、せめて今日一日なりとも、その神愛に応えてゆこうとゆうのが今日なんだ。
  13日会というて特別な特殊な、椛目で選りすぐれた成程椛目で選り優れた方達であろうけれど、選り優れた方達が集うてからなら共励すると言う事がです、特別云うなら神様の前にししょうな心と、ししょうな心掛けでおると言う事でないと、当り前の事を当り前に出来ない。ね、日頃信心を頂き教えを頂きながらです、その教えを行ずる事の不完全なと言う事を相済まないとして、せめて今日一日なりとも御神意に添え奉る 神様の願いに添え奉れる私にならして頂こうという信心の共励が今日なんである。
 その中心をいうならつかさどっております所の、神愛会の会長であります私がです、今朝から昨夜から、今朝そして今日只今迄の心の動きというか、状態を思うてみてから相済まん事だなぁと本当に。まだ例えば一人一人の御信者さん方に対してから、私の本当言うておる思うて見るとですね、自分の事なんかって、本当自分の事は自分のなった時、自分の子供の事なんかやら、こげん真剣に考えた事もなからなければ、願うた事もないようにあるのだけれども、所謂本当いうたらその底にはです。
 矢張り自分の事で一生懸命、一番願われておるのであって、矢張り皆さんの事は、こげん思われておるようであって、今朝から私言葉の中に申しましたが、御理解の中に申しておりますが、私が切実に皆さんにどうでも助かってもらいたいと。それは天地の親神様が「どうぞ氏子信心してお蔭を受てくれよ」と仰る。それよりも私のはもっと切実だと言う様な事を申しております。嘘ではない。
  そう言う様に思う私は、けれども実際、ぁ眠いのを何回も起こされたりすると、無性に腹が立っておる所から見るとですたい、こりゃまだまだほんなもんじゃないと言う事を感じるです、「泰愛」と言った様な愛が、普通の言葉では使われておりませんからないですけれども「泰愛」という字から感じさせてもらう事。ね、所謂、元気な心で信心せよとおっしゃる。
 その元気なです、愛という物、泰然自若の「泰愛」という物が欠けておる所に、まぁいうなら、私がへこたれておるんだというふうに感じるんです。はぁ思わんぞ思わんぞ、思うたて同じ事。こういうふうなものが心が、私の心の中にあるのじゃないかと言う様な事を。例えば御祈念させて頂く中に感じさせてもろうて、相済まん事だなぁ。そしたらたちがけにです、『子に詑びる』と頂きました。
 「子に詑びる」ていうそれはどういう意味の事か分かりません。子に詑びる気になれ、どういう意味か知らんけれども、そうだな字に詑びる。子供がゆう事を聞かん、ね、しかし聞かんのは親である。してみるとむしろ詑びなければならん。そういう意味ではないかもしれんけれども、そういうふうな感じだけれども、まだ私の心のその事では、一つもすっきりしていない。まぁ皆さんの今日話しを聞かせて頂いてから、どうか一つ心を本当なものにしていかなきゃならんなと思うております。
   おかげ頂きました。